目次
閉じる
- 第1部
- 第2部
- 第3部
目次
閉じる
明治維新後、新政府は殖産興業を進める一方で、幣制の整備※1と金融制度の確立を急いだ。1872年11月に「国立銀行※2条例」を公布し、欧米に倣って銀行制度の実施に踏み切ったものの、資本金や銀行紙幣の発行に関する高い規制が障壁となり、1874年までに設立された国立銀行はわずか4行であった。
設立のブームは条例が改正された1876年以降で、紙幣乱発と物価高騰を危惧した政府が抑制に転じる1879年まで、全国に153の国立銀行が誕生した。千葉県ではこの間4行が設立されたが、3行は他府県へ移転または他行と合併したため、1878年設立の第九十八国立銀行が唯一残った。
当時、国立銀行以外は「銀行」の名称を使用できず、民間からの要望に基づいて生まれた金融機関は銀行類似会社と呼ばれた。千葉県内では、共潤社、堅明社など8社が確認されている。
1876年7月、初の私立銀行として三井銀行の設立が認められると、銀行類似会社から私立銀行へ改組する動きが目立った。一部は同年に設立要件が緩和された国立銀行となったものの、1879年に国立銀行の設立が禁止されると、私立銀行の数は急増していった。安田銀行、川崎銀行などが誕生し、「銀行条例」が制定される直前の1889年末には218行にのぼった。この間、銀行類似会社も120社から695社に増えている。なお、県内に本店を置く初の私立銀行は、1881年設立の東金銀行とされている。
明治政府が国費の工面や戦費調達のため、金貨と交換できない不換紙幣を発行し続けたことで、通貨の流通量が増加し、インフレに拍車をかけた。インフレは財政危機を招き、近代産業の成長を阻害した。
1881年、大蔵卿に就任した松方正義は、ただちに不換紙幣の整理に取りかかり、正貨準備※3を持つ兌換銀行券発行によって通貨の安定を図る、近代的な通貨金融制度の確立を目指した。翌年10月に開業した日本銀行が中央銀行として、唯一銀行券の発行を担った。
これに伴い、政府は1883年5月に国立銀行の存立期限を開業後20年とする条例改正を行った。国立銀行は、その間に銀行紙幣を消却しなくてはならず、期限到来後は普通銀行に転換しないかぎり営業を継続することができなくなった。
こうして153あった国立銀行は、1899年2月をもってすべて姿を消した。内訳は、普通銀行への転換が122行、合併消滅が16行、閉鎖が7行、解散が8行であった。県内唯一の国立銀行であった第九十八国立銀行は、1897年に第九十八銀行と改称して普通銀行となった。
1893年7月、普通銀行の設立運営に法的根拠をあたえるための「銀行条例」が施行された。この条例は、銀行の定義や設立許可、業務の監督など全11条からなり、1928年に「銀行法」が施行されるまで、普通銀行を規制する重要な法規となった。また、同時に「貯蓄銀行※4条例」も施行された。
銀行類似会社は、「銀行条例」に定める銀行として設立許可を受けなければ営業を継続することができなくなり、大部分が銀行に改組した。また、国立銀行からの転換もあり、普通銀行の数は1901年12月末に1,867行にまで増加した。
千葉県内には1901年のピーク時、普通銀行70行、貯蓄銀行4行の計74行が存在した。なお、千葉銀行の前身である小見川農商銀行は1898年、野田商誘銀行は1900年に設立されている。
※1 幣制の整備
幕藩時代の金銀銭貨や藩札と、新政府が発行する太政官札が流通したことで、各種通貨間の交換比率が複雑となり通貨制度が混乱したことが背景にあった。
※2 国立銀行
米国のNational Bankの訳語で、「国営」ではなく、条例に基づき設立された民間資本の銀行。
※3 正貨準備
銀行券または政府紙幣を兌換するために、中央銀行または政府が保有する金・銀貨または金・銀地金。
※4 貯蓄銀行
1口1回当たりの預入額5円未満の預金しか取り扱うことができない銀行。預金払い戻しの規制も設けられ、普通銀行と峻別された。