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第1部 創立前史から創立40周年まで 1868(明治元)年〜1982(昭和57)年

序章 創立前史
第1章 千葉銀行の創立と戦後の再建整備
第2章 業容拡大と本店移転
第3章 資金量の拡大と融資基盤の拡充
凡例

第2部 創立40周年から創立70周年まで 1983(昭和58)年〜2013(平成25)年

第1章 金融自由化と経営基盤の確立
第2章 バブル崩壊と経営体質の強化
1. バブル崩壊と金融システムの動揺
2. 環境変化への対応と経営体質の強化
3. 不良債権処理と毀損した自己資本の回復
4. 経営システムの革新
5. 新規業務への参入と収益力の強化
6. ダイレクトチャネルの展開
7. 第3次オンラインシステムへの移行と営業店システムの導入
8. コンプライアンス・リスク管理体制の整備
9. 人事制度の変遷
10. 地域密着の広報活動と創立50周年記念事業
第3章 緩やかな成長の時代と地域密着型金融の実践
1. 緩やかな成長の時代
2. CSR経営の実践
3. 経営基盤の拡充
4. 多様化する法人取引
5. 個人マーケットの開拓
6. グループ戦略の見直し
7. ホストコンピュータの更改と業務の外部委託
8. コーポレートガバナンス強化の系譜
9. リスク対応とコンプライアンスの徹底
10. 女性・シニア層の活躍支援と人材育成の強化
11. 地域貢献活動の広がり
第4章 激動の時代とお客さま第一主義の徹底
凡例

第3部 創立70周年から創立80周年まで 2014(平成26)年〜2023(令和5)年

第1章 価値創造の追求と他行連携の強化
1. リテール・ベストバンクグループを目指して
2. 大規模金融緩和の長期化
3. 店舗ネットワークと営業体制の見直し
4. 収益源の多様化
5. 地方創生への貢献
6. 抜本的な業務効率化
7. 他行との提携戦略
8. ダイバーシティの推進
9. ESG課題への対応
第2章 コロナ危機とデジタル化への対応
1. お客さま起点の金融サービスへ
2. コロナショックと新しい生活様式の定着
3. 新本店ビルの竣工と基幹拠点の整備
4. コロナ禍の取引先支援とコンサルティング機能の強化
5. デジタル・トランスフォーメーションとムーンショット目標
6. 新事業への挑戦と異業種連携の拡大
7. BCPの強化とリスク管理の高度化
8. 活力ある組織づくりに向けた人事戦略
9. SDGsの推進
10. 地域社会との共生に向けて
トピック 創立80周年を迎えて トピック 新型コロナウイルス感染症への対応 あとがき 主な参考文献 凡例

第2章 バブル崩壊と経営体質の強化
1991年〜2001年

1 バブル崩壊と金融システムの動揺

バブル崩壊と経済情勢の悪化

資産価格の高騰など、バブルで過熱した景気に対して日本銀行は1989年以降、金融引締めを行った。公定歩合は2.5%から数次にわたって引き上げられ、1990年8月には6.0%となった。また、1989年4月に導入された消費税も個人消費に水を差す要因となり、同年末に史上最高値の3万8,915円87銭をつけた日経平均株価は年明けから急落した。

日経平均株価・公定歩合の推移

一方、政府も不動産融資総量規制(1990年4月)や地価税(1992年1月)の導入、国土利用計画法の運用強化などによって地価抑制に動いたことで、1992年の公示地価(全国全用途平均)は17年ぶりに下落した。こうして、1986年以降拡大していた景気は1991年2月を境に後退し、わが国経済はのちに「失われた10年(その後、20年とも)」と言われる長期低迷期に入っていった。

6大都市地価指数の推移

株価や地価が下がり続けたことで、企業や金融機関の資産は著しく毀損した。バブル崩壊は、過剰設備・過剰雇用・過剰債務の三つの過剰が露見した企業の「バランスシート調整不況」と、不良債権が急増した金融機関の貸出姿勢が消極的となる「金融不況」の様相を呈した。

景気が後退局面に入ると、日本銀行は金融緩和へと舵を切り、公定歩合を2001年までに段階的に0.1%まで引き下げた。政府も相次いで大型の景気対策を打ち出したが、1995年1月に発生した阪神・淡路大震災や、1997年4月の消費税率引上げ等の影響もあり、わが国経済は1993年度、1998年度、2001年度にマイナス成長を記録した。

実質GDP成長率と消費者物価上昇率の推移

金融制度改革と住専処理

金融界では、大蔵大臣の諮問機関である金融制度調査会での議論を経て、1992年6月に「金融制度改革関連法」※1が成立し、のちの「日本版ビッグバン」につながる金融制度改革がスタートした。また、1992年度からはBIS規制が本格導入され、金融機関は業態間の競争が激化するなかで、不良債権処理と自己資本の充実を同時に進めなくてはならない厳しい状況に置かれた。

また、国会では、住専の巨額の不良債権処理が争点となった。特に1996年の通常国会は「住専国会」と呼ばれ、公的資金の投入をめぐって議論が紛糾した。結局、住専は農林系の協同住宅ローンを除く7社が破綻処理されたが、回収不能額は6兆4,100億円にのぼった。この処理には6,850億円の公的資金が使われ、金融機関が、原則として母体行※2は全額、一般行※3は応分の債権放棄に応じるとともに、住専の資産を継承した住宅金融債権管理機構への融資を行うことで決着した。

さらに、1997年以降は三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券など大手金融機関の経営破綻が相次ぎ、大手行の再編報道や、都市銀行・証券会社の総会屋への利益供与問題などによって、金融システムへの不安が急速に高まっていった。そこで、政府は、金融機能の再生、破綻金融機関の処理、預金者保護の強化を目的とした、いわゆる「金融三法」※4を成立させ、早期是正措置※5を導入した。また、1998年3月と1999年3月の2度にわたって、大手行など21行に9兆2,748億円もの公的資金を注入したが、その間に日本長期信用銀行と日本債券信用銀行が「金融再生法」※6による国の特別公的管理下に置かれ、事実上破綻した。

こうしたバブル崩壊の経験は、わが国の金融の枠組み全体を見直す契機ともなった。日本銀行は1998年4月の「日銀法」改正によってその独立性を強め、大蔵省は金融行政を分離し、同年6月、新たに金融監督庁(現・金融庁)が発足した。

日本版ビッグバン

1996年11月、橋本首相は「我が国金融システムの改革」を発表し、2001年までにわが国の金融市場をニューヨーク、ロンドン並みの国際金融市場として整備することを目標に抜本的な改革を行うとした。この改革は、英国で行われた証券市場改革に倣って「日本版ビッグバン」と呼ばれた。

「フリー・フェア・グローバル」の三原則のもと、外国為替の自由化、銀行の業務範囲の弾力化、直接金融市場の整備などにより競争を促すとともに、ディスクロージャーの充実や会計制度の見直しによって、1,200兆円にのぼる個人金融資産を有効に活用していく方針が打ち出された。

これを受けて、金融制度調査会、証券取引審議会、保険審議会による横断的な議論が行われ、1998年6月に「金融システム改革法」※7が成立、12月に施行された。これにより、銀行での投資信託販売の解禁、銀行・証券・保険間の相互参入、株式売買委託手数料の完全自由化などが実施された。

千葉県におけるバブル崩壊の影響

バブル崩壊の影響は千葉県経済にも及んだ。1990~1991年度に60%を超えていた幕張メッセの稼働率は、1992年度には48.6%にまで落ち込み、同施設のある幕張新都心地区では企業の撤退が目立った。また、かずさアカデミアパークも企業誘致に苦戦した。

千葉県の公示地価は1992年以降、15年連続で下落し、平均公示価格は約5分の1となった。さらに、県内総生産や県人口の伸びも鈍化し、1998年には県内の企業倒産件数が638件と過去最悪を記録した(東京商工リサーチ調べ)。

千葉県の平均公示価格(全用途)の推移

商業施設では、1999年に扇屋ジャスコがイオングループのジャスコに吸収合併されて地元老舗百貨店「扇屋」の商号が消えたほか、翌年には民事再生法の適用を申請したそごうグループが茂原・木更津・船橋の3店舗を閉店した。県内小売業者の数も1991~2002年の間に5万2,000店から4万5,000店に減った。

住専処理にあたっては、当行、千葉県信用農業協同組合連合会、千葉興業銀行、京葉銀行が損失を負担した。その他、この時期の県内金融機関の動向としては、1994年に市川東葛信用金庫が城東信用金庫を合併して東京ベイ信用金庫と改称、1998年には千葉信用金庫が両総信用金庫を合併した。経営破綻も相次ぎ、2001年の千葉県商工信用組合、翌年の船橋信用金庫と続いた。当行も一連の不良債権処理によって自己資本を毀損したものの、公的資金の注入には至らなかった。

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