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1946年8月施行の「金融機関経理応急措置法」に基づき、当行は、戦時補償打ち切りの影響を受けない現金、国債、地方債、第一封鎖預金などを新勘定、その他を旧勘定に分離した。さらに、同年10月に制定された「金融機関再建整備法」によって、旧勘定の債権・債務の切り捨てなどの最終処理を行い、1948年3月末に1億5,747万円の確定損を計上した。このため、90%の減資と第二封鎖預金の切り捨てを行った。
1948年4月1日、新旧勘定を合併し再出発した当行は、有価証券などの資産処分・回収を進めるとともに、預金者・株主に対して封鎖預金の切り捨て額に利息相当額を加えた利益配分を行った。
一方、減資で138万円となった資本金を8,000万円とする増資計画を立て、1948年6月より募集を開始した。結果は予定額を大きく上回り、資本金は1億4,000万円となった。その後も2度の増資を行い、1951年9月には3億5,000万円にまでなった。
戦後、多くの男性行員が復職し、新規採用も増やしたことで、1953年3月末の行員数は1,389名となり、男女比率は概ね7:3となった。
1948年1月に人事部を新設し、人事業務を一元化したものの、戦後しばらくは人員の補充を優先し、新規採用者の教育は配属先の所属長に委ねた。新入行員研修を初めて行ったのは1953年3月であった。
職員の福利厚生においては、1950年9月に千葉銀行健康保険組合を設立し、職員とその家族に対する医療給付を開始した。また、静岡県熱海市に保養所「千銀荘」を、東京都中野区と千葉市に単身寮「中野寮」「新田寮」を設けた。
なお、1949年8月には定年退職者らによる親睦組織「清風会」が発足した。
終戦から1949年頃にかけて、行政の指導によって預金吸収を目的とした特別出張所や代理店などの簡易店舗の設置が促され、当行も長洲や稲毛などに5つの特別出張所を新設した。1949年9月に指導方針が出張所・代理店の整理へと転換すると、当行は1950年に8出張所を廃止、翌年18出張所を支店に昇格させた。
また、経済的につながりの深い都内にも進出した。この時期、金町、新小岩、小岩、久松町、秋葉原、王子に相次いで出店し、既設の東京支店と合わせて都内の店舗網を形成した。
1946年11月、衆議院に通貨安定対策本部が設置されると、貯蓄増強を目的とした「救済貯蓄運動」「経済自立促進特別貯蓄運動」が全国で行われるようになり、全国の小・中・高等学校には「こども銀行」※3が普及していった。当行も、各営業店の預金増加率に応じて賞金を支給するなど、全店的な運動を展開した。
この時期は、国民の貯蓄意欲を高めるための新種預金も登場した。「福徳定期預金」「割増金付定期預金」「復興定期預金」がその一例で、割増金付定期預金は各行が独自の企画で取り扱うことができた。当行では、1949年1月より、1口1,000円、期間1年、無利息だが抽選で特等10万円、末等でも35円があたるハズレ無しのくじ付き商品として「宝定期預金」の名称で販売した。この宝定期預金は、娯楽の少なかった時代に有名芸能人が登場する抽選会が人気を集め、預金増強のための主力商品となった。1964年の第77回まで続き、募集額は累計で935億円に達した。
戦後の激動期にあっても、当行は預金の増強と適正な資金運用に努め、業績を拡大した。1953年3月末の総預金は189億円、総貸出金は169億円となり、終戦直後の1945年9月末と比べると、それぞれ20倍、100倍を超える規模となった。
1953年3月、当行は創立10周年を迎えた。同年7月には本店の増改築工事が完成し、落成祝賀会を開催した。記念事業として本店屋上に電光ニュースパネルを設置したほか、県民の社会福祉と厚生事業に寄与するため、千葉県福祉財団を創設した。
※3 こども銀行
学校教育の一環として行われた貯蓄活動。学校長の指導でつくる一種の貯蓄組合で、集まった金銭は児童・生徒の個人名義または代表者名義で金融機関に預け入れられた。