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1964年の東京オリンピック開催が決定すると、首都を中心に交通・社会インフラの整備が進められ、わが国は「オリンピック景気」(1962~1964年)に沸いた。その後、「昭和40年不況」と言われる構造不況に陥るが、数次にわたる公定歩合の引下げや、ドッジ・ライン以来初めてとなる長期国債(特例国債)の発行など積極的な財政政策によって景気は持ち直した。
1965年に始まった「いざなぎ景気」の好況は1970年まで、実に57か月にわたって続いた。その間、1968年にわが国のGNP(国民総生産)は西ドイツを抜き、敗戦から20年余りでわが国は資本主義諸国のなかで米国に次ぐ第2位の経済大国となった。この勢いは、田中角栄首相の日本列島改造論に刺激された土地投機ブーム(1972~1973年頃)まで持続した。
わが国が開放経済体制へと舵を切るなかで、金融制度も時代に合った見直しが行われた。1968年6月にいわゆる「金融二法」※1が施行され、相互銀行や信用金庫などを中心とした金融機関の合併・転換が進展した。また、銀行の統一経理基準が定められ、各銀行の収益実態が公表利益に反映されるようになった。
それまで大蔵省通達により定められていた銀行の株主配当は、1970年から財務内容に応じて一定の範囲内(原則10%)で自主的に決定できるようになった。この他、大蔵省から店舗の配置転換に関する弾力的運用方針も示された。
千葉県の人口は、京葉臨海工業地帯や内陸工業団地への労働力流入によって増加の一途をたどり、特に1960年代後半から社会増が自然増を大きく上回るようになった。人口増加率は1969年のピーク時に前年比5.4%を記録し、県人口は、1955年の220万人から1968年に300万人、1974年には400万人を超えた。
こうした背景により、東京に近接する地域はベッドタウンとして急速に開発されていった。1955年に千葉県住宅協会(現・千葉県住宅供給公社)が全国に先駆けて開発した八千代台団地(八千代市)をはじめ、日本住宅公団(現・都市再生機構)などによって常盤平(松戸市)、高根台(船橋市)、江戸川台(流山市)、大宮台・小倉台・千城台(いずれも千葉市)、勝田台(八千代市)などの住宅団地が形成された。官民の事業体による住宅造成面積は、1961年から1970年の間に8,059haに及んだ。
1965年には臨海部や内陸部にニュータウン開発構想が持ち上がり、のちに、海浜ニュータウン(千葉市)、千葉ニュータウン(印西市ほか)、成田ニュータウン(成田市)として具体化した。
こうした都市化の波によって、東京都と千葉県を結ぶ交通網も充実していった。鉄道では、1969年に営団地下鉄東西線が西船橋まで開通し、国鉄(現・JR東日本)は在来線の電化・複線化などを進める一方、1978年に武蔵野線(新松戸-西船橋間)を開業した。その後も京葉線や北総開発鉄道(現・北総鉄道)の開業などが続いた。
高速道路は、1960年の京葉道路(一之江-船橋間)を皮切りに、1972年の東関東自動車道(成田まで)、1979年の千葉東金道路、1980年の京葉道路(千葉市浜野町まで)、1982年の首都高速湾岸線がそれぞれ開通・延伸した。この他、鴨川有料道路や市川松戸有料道路など、県内各地に有料道路も整備された。なお、この時期には国道、県道、市町村道など一般道の舗装化も進められ、舗装化率は1973年に98%となった。
※1 金融二法
「金融機関の合併及び転換に関する法律」および「中小企業金融制度の整備改善のための相互銀行法、信用金庫法等の一部を改正する法律」。