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昭和初期、「一県一行主義」の国策により全国で銀行合同が進むなか、千葉県では1942年に千葉合同、小見川農商、第九十八の3行が合併による新銀行設立に合意し、その年の12月30日に合併契約書への調印が行われた。この3行合併に積極的であったのが千葉合同銀行で、他の2行は国策に従うかたちで参加した。
1943年3月29日、千葉市通町(とおりちょう)の第九十八銀行本店で開催された創立総会において、千葉銀行の創立が可決された。初代頭取には千葉合同銀行頭取の古荘四郎彦が就任し、3月31日より営業を開始した。創立時の規模は、公称資本金1,000万円、店舗70か店、行員725名、預金2億4,702万円、貸出金5,159万円であった。
その後当行は、1944年3月に千葉貯蓄銀行を合併し、同年6月には最後まで独立経営を貫いてきた野田商誘銀行の営業を譲り受けたことで、県内に本店を置く唯一の銀行となった。これをもって千葉県における一県一行体制が確立した。
戦時下、政府は国民貯蓄増強活動を推進し、金融統制会※1や都道府県を通じて各金融機関に貯蓄目標額が割り当てられた。
当行においても「各店預金1割増強運動」「貯蓄総攻撃運動」など独自の預金獲得運動を展開した結果、預金の伸びは全国平均を大きく上回り、残高は終戦直後の1945年9月末に9億3,775万円にまで増加した。
集めた預金は主に国債の購入に充てた。この背景には、戦争の影響で一般商工業が衰退し、資金量などの制約で軍需産業にも資金供給ができない事情があった。1945年9月末の保有国債残高は開業時の5倍以上となり、預金量の56%に相当した。
戦局が拡大すると、男性行員の徴用などによって人手不足が深刻となり、女性行員の採用を積極的に行った。出征者を除く実働人数でみると、開業時3割強であった女性行員の割合は1945年初頭には5割強にまで上昇し、戦時中の業務において女性行員の貢献度は極めて高かった。
なお、1945年2月の米軍による東京空襲で当行の東京支店が全焼、7月7日の千葉市大空襲では本店新館を焼失したが、残った旧館で翌日から営業を再開した。
※1 金融統制会
1942年に発足した、日本銀行を頂点とする戦時下の金融統制体系。国民貯蓄の増強と資金の配分を主な使命とし、地方銀行は全国金融統制会傘下の地方銀行統制会に所属した。