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わが国経済は好調な世界経済と円安に後押しされた輸出拡大によって、2002年初頭から73か月にわたり、緩やかながらも息の長い景気回復が続いた。
バブル崩壊後に多くの企業が抱えていた三つの過剰(設備・雇用・債務)も解消しつつあったが、一方で労働者の賃金がほとんど上がらず、個人消費は伸び悩んだ。多くの国民にとって実感なき景気回復となり、非正規雇用者の増加で「格差社会」が取りざたされた。
景気回復局面において2005年11月に消費者物価指数がプラスに転じたことなどを受けて、日本銀行は2006年3月に量的金融緩和政策※1を、同年7月にはゼロ金利政策※2を解除した。
2002年10月、竹中金融担当大臣が中心となって策定された「金融再生プログラム」では、主要行(都市銀行、長期信用銀行、信託銀行)の不良債権比率を2004年度までに半減させる目標を掲げた。
また、2003年3月公表の「リレーションシップバンキングの機能強化に関するアクションプログラム」において、中小企業の再生と地域経済の活性化施策を2年間で集中的に進めることで、主要行以外の中小・地域金融機関の不良債権問題を円滑に解決していく方針が打ち出された。ここでは不良債権比率の削減目標は示されなかったものの、「リレーションシップバンキングの機能強化計画」の策定とそのフォローアップが義務付けられた。
これらのプログラムに沿って各金融機関は不良債権処理を進めたが、2003年7月にりそな銀行に公的資金が注入され、同年11月には足利銀行が一時国有化されるなど、金融システム不安はなおもくすぶり続けた。
なお、景気回復に伴う融資先の業況改善や株価上昇などが追い風となり、主要行の不良債権比率は2002年3月末の8.4%から2005年3月末には2.9%にまで低下し、金融再生プログラムにおける半減目標は達成された。
金融再生プログラムが完了すると、2004年12月に「金融システムの活力」を軸とする「金融改革プログラム」が、2005年3月に中小・地域金融機関向けの「地域密着型金融の機能強化の推進に関するアクションプログラム」が公表された。さらにその翌月には、不良債権問題の終結を待つという理由で延期されていたペイオフが完全実施された。
2007年に入ると、3月に新たな自己資本比率規制「バーゼルⅡ」※3が導入され、9月には「金融商品取引法」※4が施行された。その翌月には小泉首相が改革の本丸と位置付けた郵政民営化がスタートした。
なお、この時期は、メガバンクや地銀上位行で合従連衡が活発化した。
わが国経済と歩調を合わせ、千葉県経済も緩やかな成長を遂げた。2002年には県の人口が600万人を突破したが、500万人を超えた1983年から約20年かかった(400万人から500万人までは9年間)。また、2003年の野田市と関宿町の合併を皮切りに、県内自治体でも「平成の大合併」が進み、1970年代に80あった市町村の数は54にまで減った。
県内交通網の整備も進んだ。2005年8月につくばエクスプレスが開業し、沿線の柏、流山、茨城県つくば地域では住宅・商業開発のほか、産学官連携による国際学術研究都市構想によって世界レベルの大学や研究機関などが集積していった。さらに、2007年7月の館山自動車道の開通、2009年10月の成田国際空港B滑走路の供用開始、2010年7月の高速鉄道「成田スカイアクセス」の開業と続いた。
この他、2009年8月より、社会実験の位置付けで東京湾アクアラインの通行料が片道3,000円から800円に引き下げられ、その効果もあって接岸地の木更津市では人口が漸増した。
※1 量的金融緩和政策
中央銀行が直接、市場への通貨供給量(マネーサプライ)を増やすことで景気回復を目指す政策。
※2 ゼロ金利政策
日本銀行による無担保コール翌日物金利を実質ゼロにする金融緩和政策。
※3 バーゼルⅡ
BIS規制導入後のリスクの複雑化・高度化等を踏まえ、新たに定められた自己資本比率規制。オペレーショナルリスクなど金融機関の直面する諸リスクをより精緻に評価し、統合的に管理することが求められた。
※4 金融商品取引法
利用者保護ルールの徹底や、「貯蓄から投資」に向けての市場機能の確保および金融・資本市場の国際化などを図るため、証券取引法が改正されて成立した法律。